想い出をめぐる旅 [3/17]
亡き父の命日に寄せて。
(※この記事は3/19にUPしました)
今年のお正月、はるまきパパの実家・広島へ帰省していたときのお話です。
「せっかく広島に帰ってきとるんじゃけ、どこかいこうかのぉ」
という義父の発案で、安芸の宮島に出かけることになりました。
真葵は初めて、地元にいる義父母もなかなか訪れる機会がなく十数年ぶりとのこと。
そして私が宮島を訪れたのは約8年前、それは結婚する前に生涯最初で最後の親子旅行をしたときのことでした。
約8年前。
「結婚する前に、やっぱり広島のご両親に挨拶しないと、ねぇ」
「それに広島がどんなところか、見ておかなきゃなぁ~」
と、挨拶が目的なのか、観光が目的なのか、両親と私で広島に『婚前旅行』することになりました。
3人兄弟の末っ子の私は、家族旅行といえばいつも兄弟も一緒・5名様が当たり前だったので、父・母と3人だけで旅行するのは産まれて初めてでした。
石川県金沢市から電車と新幹線を乗り継ぎ一路広島県へ。
挨拶も済ませ、さて折角来たのだから・・・ということで、訪れたのが名所・安芸の宮島だったのです。
「そうそう、前は金沢のおじいちゃんとおばあちゃんと来たんだったなぁ。」
と想い出にふけるママ。
「金沢の、死んじゃったじーちゃんと来たの?」
今は亡き父(=金沢のじーちゃん)との想い出が薄い真葵は興味津々。
「そうそう、ママが前に来たときは金沢のおじいちゃん、おばあちゃんともいっしょでねぇ。
ママは鹿さんに蹴られちゃって、皆が指差して大笑いしてたんだよなぁ・・・・」
・・・・・なんか、結婚前からそういう役回りだったんだなぁ、と思い出しながら一人苦笑い。^^;
いち・に、いちに。
鹿の親子と行進する真葵。
「この鹿さんが、ママのこと蹴ったの?」
「・・・・・さぁ、この子かどうだか・・・・ ^^;」
8年前訪れたときに、義母から
「美味しいお店があるから、広島においでたんじゃけゼヒ~」
と教えてもらい、名物アナゴ丼を食べた事を思い出し・・・・・
想い出のアナゴ丼、8年ぶりに食してきました。^^
父母と訪れたときとは違うお店でしたが、8年ぶりの味に再会してしばし感動。
父が『宮島で食べたアナゴ、うまかったなぁ~』と後々つぶやいてたのを思い出しながら・・・・・
真葵も
「おじいちゃんが好きだったんだ~。美味しいねぇ~」
といいながら、モリモリ食べておりました。
義父・母、はるまきパパと皆で亡き父の事を思い出しながらめぐった、安芸の宮島でした。
おまけ。
「何買ってきたんだよぉ~」
帰りのフェリーに乗ろうとしているときに、鹿に絡まれたはるまきママ。
・・・・・8年前に蹴ったヤツ、さてはお前だな?!
おじいちゃんの字 [3/17]
3/17
私(はるまきママ)の父の命日によせて
真葵が幼稚園に行っているときを見計らって、こそこそと裁縫道具を広げることの多い私。
だって、真葵が一緒だと
「ママ、これなーに?」
などといいながらボタンをばら撒いたり・・・・・ハサミや針も、4歳児には凶器だからね。
でも先日は真葵が帰って来る時間までに片づけが間に合わず、裁縫道具が出しっぱなしのままお迎えにいってしまいました。
案の定、家に戻って裁縫道具が出しっぱなしになっているのを見つけた真葵は興味津々。
「何作ってたの~? 真葵の?」
といいながら、裁縫道具を覗き込んで・・・・・・・
「あれー? これ、なんでおばあちゃんのお名前が書いてあるの?」
「・・・・・・・おばあちゃんの名前?あぁ、そうか・・・・・」
そう、裁縫道具には私の旧姓(=おばあちゃんの苗字)が書いてあるのです。
裁縫箱だけでなく、糸きりバサミ、裁ちばさみ、布にしるしをつけるチャコペン、そして待ち針の一つ一つにも、小さく苗字が刻まれているのです。
この裁縫セットは、私が小学校の家庭科で買ってからずっと使っているのでかれこれ20年以上のお付き合い。
20年前には、今のようにパソコンもなく、自分で”お名前シール”なんていうものを作ることもない時代だったので、学校で購入したものの記名はすべて父の手書きでした。
達筆だった父は、春になると子供の学用品の宛名書きをしてくれました。
待ち針の一本一本にまで名前を書かなければいけない、という地味な作業に父は明らかに『渋々やっている』という感じでしたが、それでも丹念に一つ一つの持ち物に記名をしてくれたのでした。
新学期を迎える頃には、何かしら「お名前書き」をしなければいけないものがあるものです。
教科書、算数セット、書道道具、絵の具セット・・・・・・・
そして、いつも父は『渋々』ながらも、一つ一つ丹念に名前を書いてくれたのでした。
父が名前を書いてくれた道具を持っていくと、友達は
「すごい、これ判子?」
「印刷したみたいだね」
と父の字をうらやましそうに見つめるのでした。
父が書く字は、本当に印刷でもされているかのような、正確なお手本のような字だったのです。
友達にそれを指摘されるたび、誇らしいような、照れくさいような気分になったのをふと思い出しました。
「ママ、おばーちゃんのおうちから(裁縫道具を)持ってきちゃったの?」
ママも昔はおばあちゃんと一緒の名前の時があったんだよー、と説明するのはまだ難しいかと思い
「あはは、ごめーん!持ってきちゃったんだよ~」
と笑うと、真葵は
「持ってきてもいいの~?ダメじゃないの??」
と不思議そうな顔をしています。
「いいの、いいの。 これはおじいちゃんとおばあちゃんにちゃんと貰ったんだから。
このお名前ね、おじいちゃんが全部書いてくれたんだよ~ 」
真葵の興味はもうTVの幼児番組に移ってしまい、ふーん、とだけ言い残して去っていてしまいました。
もう少ししたらわかるのかな?
真葵のおじいちゃんはね、とっても字が上手だったんだよ・・・・・
実家から遠く離れてしまった我が家には、亡き父の物はほとんどありません。
でも、こんな意外なところに父が残したものがあったのだ、と気がつきながら裁縫道具を片付けたのでした。
裁縫箱、買い換えようかと思っていたけれど・・・・・やっぱりもうしばらく大事に使うことにします。
父が亡くなったときに『小学校の卒業式だ』といっていた甥・姪も、昨日までに無事進路が決まり春からは高校生になります。
一番年上の姪っ子は、社会人になるためもうすぐ研修が始まるそうです。
成長してゆく孫達の姿を見て、父も天上で笑いながら祝杯を挙げていることでしょう・・・・・・・
真葵とじいちゃん [3/17]
私には母方の祖父(真葵の曾じいちゃん)の記憶がまったくありません。
私が生まれる前にすでに亡くなっていたのであたりまえなのですが、だいぶ大きくなった頃に祖父の写真を母が発見して
「これがあんたのじいちゃんだよ」
と見せられて、『あぁ、じいちゃんってこんな顔してたんだ~』とやっと実感できたぐらいだったのです。
私の父が病で倒れたとき、真葵はまだ1歳の誕生日をやっと過ぎた頃でした。
離れていて看病はおろかお見舞いにすらいけない日々・・・HPで日記をつけたり、メールで写真を届けたりと真葵の成長を見てもらおうと送り続けました。
父は病室で
「生の(動く)真葵が見たいなぁ」
とよくつぶやいていたようです。
父の病状もなんとか退院するまでに回復し、私達も年末・年始の休暇にあわせてに実家に帰ることが出来ました。
そのとき真葵は1歳半。ちょうど人見知りの始まっていた頃で、特に男の人を見ると大泣きしていました。
退院したとはいえ、元気だった以前の父とは違う”じいちゃん”の姿に、きっと真葵は泣くだろうなぁ・・・と心配してましたが、
「じーちゃん!じーちゃん!!」
と大喜びしていて、やっぱり真葵は身内の顔を覚えているものだなぁ、とちょっとほっとしました。
真葵は父にべったりで、一緒にしまじろうのビデオを見ては踊り、絵本を読んで!とせがんだり・・・父も、一緒に手遊びをお付き合いしたり、繰り返し絵本を読んでやったりしてました。
そんな姿に驚いたのは私達・・・だって、父は自分の子供たちにもそんなことをしたことがなかったのですから。
「ちょっとみてよ、じーちゃんが真葵に絵本読んでるよ」
「えぇっ?!あのじーちゃんが・・」
「うーん、やっぱり孫の力はすごいよ。いいリハビリだよね」
母と私は影からこの仲の良い二人の様子をこっそりと眺めては、クスクスと笑っていました。
それじゃ、またくるからね!と約束して実家から戻ってきました。
そのしばらく後に父の病気は再発、そのまま入院・・・
次の連休には必ず行くよ、といっていたのに、それを待たずに父は帰らぬ人となりました。
葬儀の席、真葵は黒いワンピースを着て走り回り、私達に笑顔を振りまきます。
私達も真葵に気をとられていると、悲しみをこらえることが出来ました。
でも、この時真葵はまだ2歳前・・・きっとこのまま”じーちゃん”のことを忘れていくんだろうなぁ、と思いました。
最近、パソコンに収めている写真を眺めていると、父と真葵の2ショット写真が出てきました。あの、二人でビデオを見たり、絵本を読んでいたときの写真です。
真葵が近寄ってきて、パソコンの画面を見て
「あ、じーちゃんだ!!」
「真葵ちゃん、じーちゃんを覚えてるの?」
「うん、じーちゃんが真葵ちゃんに絵本読んでくれたよ!」
写真にはビデオや絵本はほとんど写ってません。ということは・・・あぁ、真葵にはじいちゃんと一緒に過ごした記憶が残ってたんだ・・・そう思うと、ちょっと嬉しくなりました。
今日は、真葵の大好きな”じいちゃん”の命日です。